備忘録 6月08日(土)~6月09日(日)
■6月8日(土)
午前8時過ぎに起床。
掃除機掛け等の家用をこなす。
午前10時過ぎに連れ合いと共に車で出かける。この日は連れ合いを市の中心部にあるいつもの眼科に連れて行く日である。毎回受診の度に瞳孔を広げる薬を入れられ、そのため暫くは眩し過ぎて歩くのが憚られるため私が車を運転して連れて行っているのだが、きっかけは昨年に白内障の手術をしてからで、その後の検査が名目なのだが、これはいったいいつまで続くのであろうかと最近けっこう疑問に思っている。と言うのも周りで白内障の手術をした人の話だと、ここまで術後の検査があったなんて耳にしたことがないからだ。もちろん症状に個人差があって治療内容にそれ相応の違いはあるのだろうが、連れ合いは今は普段目がおかしいということはなく至って普通。素人の私には検査を続ける理由に考えが及ばない。まさかとは思うが「金づる」になっていないだろうか?
眼科に向かう途中、私が受診している耳鼻咽喉科の町医者に立ち寄る。先日依頼していた総合病院への紹介状ができたと連絡を受けたからだ。受付に行って紹介状をもらいに来た旨を告げると「しばらくお待ちください」と言われたので待合で待っていたのだが結局15分ほど待たされた。
これも理解不能。
私の考え方がおかしいのか?
他のいくつかの医院だと(私の経験では)連絡を受けてから訪れてその旨を告げると、すぐに(紹介状を)受領できるのが常だった。だから今回もこの町医者においても)すぐにもらえるのだろうと思っていたのだが、この町医者は依頼者(今回は私)が来てから用意をしている? それってあまりに非効率じゃない? それとも私がせっかちなのであろうか?
まさか耳鼻咽喉科の町医者で(出来上がっていると連絡を受けていた)紹介状を受領するのに15分も待たされるとは思いもしていなかったので、予定が大幅に狂った。連れ合いの眼科予約時間は午前11時。「早めに着いたら着いたで早く呼んでもらえるから」ということで自宅を早めに出たのに結局この時点で遅れることがほぼ確定。
午前11時を少々回った頃に眼科医近くで連れ合いを降ろし駐車場に向かう。ここは某私鉄駅舎の1階にあるため専用の駐車場はないので、すぐ近くのショッピングセンタービルの地下駐車場にとめるしかない。
車を駐車場にとめたあと連れ合いの受診が終わるまでブラブラしながら待つ。ここは市の中心部で色々な商業施設があり店舗数もけっこうな数に上るのだが、はっきり言って同じような店ばかりで全然面白みがない。再開発時の元々あった地元商店との契約の絡みとかその他利権絡みとかがあったと思うが、とにかくクソつまらない店舗ばかり。家電量販店はないわ、ホームセンターはないわ、車関係の店もバイク関係の店もないどころか自転車関係の店もない。もちろん楽器屋だってない。スポーツ用品店もないしアウトドアショップの類もない。レンタルCD屋の類だってない。「今時のショッピングセンターやモールにジジイ基準の店なんてない」って言われそうだが、ジジイどころか若者だって来たいって思わないような店ばっかり。この市の都市開発は大昔からそうだが、まったくイケていない。
ということで結局建物内のそこらのベンチで座ってスマホで時間潰し。正直なところまったくの無駄時間。
午後12時過ぎに連れ合いの眼科受診終了。久しぶりにミスタードーナツに寄って昼食用のドーナツを購入したが、値段の高さにビックリ。数年前と比べて少なくとも1.5倍。実質賃金は減っているのにモノは値上がりばかり。これで経済が良くなるわけがない。
午後1時頃に帰宅。
少々遅めの昼食は、買ってきたドーナツと特価100円の時に買い溜めしていた500mlペットボトルのアイスコーヒー。
午後1時半頃にレブルに乗って、このバイクを購入したバイク屋に向かう。1年(24カ月)点検をしてもらうのとオイル交換をしてもらうためである。
この件については色々思うところがあるので別途書く。
午後5時過ぎに帰宅。
バイクの後片付けをした後、周辺の掃除。例によって塀替わりに植えているレッドロビンの落ち葉がそこらに散在しており近所迷惑になりそうであったため。
午後6時過ぎにやっと一息。
夕食は冷麺と連れ合いがスーパーの総菜屋で買ってきた鶏の唐揚げとフライドポテト。しかしフライドポテトは塩味がきつ過ぎてあまりうまくなかった。
その後ソファに座っていたら午後9時過ぎまで爆睡。けっこう疲れていたみたい。
午後9時過ぎに風呂に入る。しかし実態は「風呂掃除」である。今朝がた連れ合いから「風呂掃除をしてくれ」と言われていたのである。この場合の「風呂掃除」とは単に風呂桶を洗うだけではなく、壁や床なども含めた「浴室の大掃除」である。
正直言ってやりたくなかった。昔からずっと2~3カ月単位でそれをやっていたが、六十を超えてからはそれの体への負担が無視できなくなってきたからだ。特にここ数週間は体調に不安があったから気が進まなかった。しかし自分がやらないからと言って連れ合いがやってくれるわけではないし、結局いつかは自分がやらねばならん。じゃあ日曜日の午前中にするかと思ったが、それを考えた途端に憂鬱になった。日曜日の午前中に「浴室の大掃除」をやったら疲れてしまって、その後何もできなくなりそうに思えたから。(最近の私は、休日の少ない自分の時間を予期せぬことで削られることに、それが家族のためのものであっても、途方もないくらいのストレスを感じるのである。)「それなら」と思い風呂に入りがてら掃除をすることにした。
午後10時過ぎに風呂から上がる。疲れは若干あったが予想したほどではなかった。問題は明朝であろう。
その後テレビ番組をボーッと眺めたりYOUTUBEの動画を観たり。ちなみに連れ合いは横でほとんど居眠り。(時に鼾をかくほど。)さっさと寝たらいいのにといつも思うのだが、それを口にすると「自分だって」云々言い出して途端に機嫌が悪くなるので何も言わずに放置している。
午前0時前に就寝
■6月9日(日)
午前9時前に起床。やはり前夜の「浴室の大掃除」がこたえていたようで、ほぼ爆睡だった。しかし、おかげで疲れはさほどなし。
掃除機掛け等のいつもの家用を行った後、メールチェック等。
そうこうしていたら実父から電話があった。相談したいことがあるから、今日そっち(私んち)に行っていいかと訊いてくるので、雨が降るような天気の日に無理して来られても困る(結局私が送迎せねばならなくなる)ので自分がそっちに行くと告げた。そして何の相談かと訊いたら携帯電話のことだという。実父は今スマホを使っているのだが理由あってそれまでのガラケーも契約したままにしているのだが、その月々の使用料の高さが以前から問題になっていた。おそらくその相談であろうと予想。
昼飯は賞味期限の切れそうなカップ麺。
午後1時過ぎに実父母のもとへ。詳細は割愛するが例によって堂々巡りの、何の結論も出ない、非生産的な話に、2時間以上付き合ってきた。ぶっちゃけ九十手前と八十代後半の(肉体的にはもちろんのこと、精神的にもとても健康とは思えない)老人たちの好き勝手な話にまともに付き合っていると、マジでこっちの精神が疲弊する。最初の頃はきちんと向き合って話をしていたが、いつの間にか所々にまともとは思えない言動が目立ってきた。実父はさほどではないが実母はもう数年前から難病及びその治療薬の影響で訳の分からないこと、はっきり言うと「妄想」を言い始めては実父を激しく罵るように責め立てたりすることが珍しくない。実父も実母のその訳のわからない妄想の話を聞き流せばいいのだが、聞き流すと実母がその実父の聞き流す態度に更に腹を立てて激昂したりするから始末に負えない。今更私如きが書くほどのことではないが、介護の現実はよく見聞きする綺麗ごとで済むようなことではない。ぶっちゃけ介護する方もされる方も心の中にはドロドロとした思いが溜まりまくっている。そんな現実の中にいると「変に長生きしたくない」って心底そう思ってしまう。
夕方、自宅に戻ってからまたも自宅周辺の掃除。今日もあちこちに庭木のレッドロビンの葉っぱが散在。更にもう一本の名前も知らない木の葉っぱも散在していたので必死こいて掃除。お隣の玄関もこっそり掃除。うちの木の葉っぱが散在しているのを見ると、もう本当に毎日毎日申し訳ない気持ちでいっぱいになる。それで今日はもう本当に「このレッドロビン、伐採したろか!」って思ってしまった。この木々がある限り葉っぱは落ち続けてそこら中に散らばりまくる。そしてそれを見た私は「このままでは近所迷惑だ」と何かしら思ったり行動したりして、そこでストレスが溜まりまくる。これはもう精神衛生上よろしくない状況に間違いない。それが続いたら自分はどうなってしまうのであろう? それを考えると更に別のストレスが溜まる。日々仕事のストレスを抱えているのに更にそんなストレスが溜まったら……。
しかし結局レッドロビンを伐採することはしなかった。伐採したら伐採したで何を塀の代りにするのか? それを考えるとまたそのストレスに襲われる。結局何をしたって現状ではストレスに至るという「ストレスの無限ループ」状態。それが今の私の置かれている実情なのである。
ちなみに「もう一本の名前も知らない木」であるが、これは伐採こそしなかったものの枝葉を思い切り剪定した。これでこっちの木の方は当分気にならないだろう。
夕食は野菜と豚肉の蒸し焼き。
その後書きもの。
午後9時前に実姉に今日の実父母に関することの報告をLINEにて送付。
その後少しギターの練習。
午後10時頃に風呂に入った後、就寝。
この土日は何だかとっても疲れてしまった。明日からまた仕事かと思うとマジで鬱になったような気持ちになった。
大袈裟であろうが、改めて自分は今いったい何のために生きているのだろうかと思った。そのはっきりとした答えはもちろん出てこないのだが、ただ一つ確実に言えるとことは、間違いなく「自分のため」よりは「人のため」に生きているということである。そう書くと高尚なことに聞こえるかも知れないが、実態は「人にこき使われている」である。考えようによっては「奴隷」みたいなもの。こんな人生があの世に行くまで続くというのなら、そんな残りの人生など今すぐ捨てたい。マジで。
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